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2月9日勉強会後記
(第三回目「1962年11月28日」のセッション)
ラカンはRiemannについては、IdentificationやRSIで一寸触れていますが、もう少し詳しい説明をNasioに託して1979年のLa
topologie et le tempsの最後のセッションで、かれに語らせます。
とりあえず、その部分の試訳を以下に載せます。
La topologie
et le temps 15/5/1979 を参照してください。
11月24日勉強会後記
(第二回目「1962年11月21日」のセッション)
The International Journal of Psycho-analysis vol. XXXIV,
1953, pp.177-198, ≪On the psycho-analytic theory of affects≫
by David Rapaport の総括の部分を載せます。Zさん、次回までに邦訳お願いします。
The theory of affects, the bare outlines of which seem
to emerge, integrates three components : inborn affect discharge-cannels
and dischrge-thresholds of drive-cathexes ; the use of these
inborn channels as safety-valves and indicators of drive-tension,
the modification of their thresholds by drives and derivative
motivaions prevented from drive-action, and the formation
thereby of the drive-representation termed affect-charge
; and the progressive ?taming? and advancing ego-control,
in the course of psychic structure-formation, of the affects
which are thereby turned into affect-signals released by
the ego.
質問者Y : 大文字の他者はシニフィアンの宝庫でありながら、そこにはひとつのシニフィアンが欠けていて、無意識の次元において、その欠けたシニフィアンの位置に他のシニフィアンが置き換えられてゆくとして、それが失われた対象を見出そうとする欲望に対応するのだとすると、症状とはこのふたつの事象との関係においてどのように規定されるのでしょうか。
荻本:症状も無意識の形成物です、次の年度のセミネール ≪Les quatre concepts
fondamentauxde la psychanalyse≫ p.44 (邦訳『精神分析の四基本概念』の57頁)に無意識の「拍動的」pulsatifな機能という言葉が出てきます。欲望の無意識的、メトニミー的な運動(今まで勉強してきた『科学的心理学草稿』におけるphiニューロンにおける慣性法則にしたがう量の流れに相当します)も反復ですが、ときとしてこの無意識は顔をのぞかせます。しかしながらこの無意識との出会いは常に出会い損ないの出会いです。famillionärをめぐる機知については既にお話ししましたね。金持ちと仲良くなれたら自分も金持ちになれると思うのは願望(BegierdeというよりWunschといった方が、この場合はしっくり来ますね)は叶わぬ願望(とフロイトは言うに止めるでしょうが)どころか、小生が思うには危険な願望です。なぜならば、金持ちは吝嗇だから金持ちになれたのであり、小生でしたら「あなたが金持ちと食事をする機会があるとしたら、必ずあなたが食事代を払う羽目になりますよ」、とやや中立性を欠いた助言をしてしまいます。症状も妥協の産物です(セミネール
≪sinthome≫における症状は一寸状況は違ってきますが)が、あくまで失敗した妥協の産物といえるでしょう。一次過程にしたがったメトニミー的運動に、しばしばメタフォール的な形成物が顔をのぞかせるのです(ラカンはこの箇所でfente割れ目と言っています)が、これも反復です。人生というのは、無意識的メトニミー的流れとときとして起こる失敗の反復なのです。もちろん僥倖と呼べるような出来事もありますよ。例えば宝くじが当たるとか。しかしながら神にとっては、人間にとって希少な当たりくじも大多数の外れくじも、純然たるシニフィアンの組合せである点において価値の差はないのです。
質問者Z:欠如の分有する空というものはいろいろは方法で埋められるけれども、分析家は空を埋めないというところをもう少し説明していただければと思います。
荻本:基本的な3つのことがら、欲求besoin, 要求demande, 欲望desirを区別してください。要求に対する分析家のとるべき態度については、ちょうどこのセミネールの1962年12月5日に述べられていますので、小生の解説を読んでください。
10月6日勉強会後記(第一回目「1962年11月14日」のセッション)
荻本:まず小生の調べ方が不十分で、間違っている部分を訂正いたします。émoiについてラカンが言っていることはほぼ正確でした。smagareというイタリア語の動詞は実際存在します。小学館の伊和中辞典には、他動詞、1.
(魔法や迷いから)覚ます. 2. ≪古≫ 弱らせる, (心を)かき乱す;よそにそらせる, 迷わせる、とあります。またBlochとvon
Wartburgの辞典のémoiの項は以下のとおりです。
XII (esmais ; esmoi apparait au XIIIe s., mais ne tromphe
qu'au XVIe). Tire de l'anc. verbe esmayer ≪ troubler, effrayer
≫ et ≪ se troubler ≫. d'ou esmoyer, verbe encore usite dans
les patois, lat. pop. exmagare ≪ faire perdre son pouvoir,
sa force ≫, der. de bonne heure du verbe germanique occidental
magan ≪ pouvoir ≫, cf. anc. haut all. et gotique magan ≪
id ≫, auquel se rattachent l'all. mogen et l'angl. to may.
Aussi it. smagare ≪ se decourager ≫, port. esmagar ≪ ecraser
≫, a. pr. esmagar, esmaiar ≪ troubler, se troubler ≫. Le
sentiment linguistique rapproche aujourd'hui emoi du verbe
emouvoir, d'ou l'expression doux emoi (dp. 1835)
とラカンはほぼこの辞書を忠実に引用しています。お詫びをして訂正させていただきます。
質問者X:affect、シニフィアン、抑圧の三者間での関係についてもう少し説明してください。
荻本:この点ではラカンはフロイトとの間に齟齬はありません。ラカンのシニフィアンに一番近いとされて
いるフロイトの用語はVorstellungsreprasentanz、日本語で「表象代表」、あるいは「表象代理」と翻訳されています。ラプランシュとポンタリスの精神分析用語辞典の同項と「欲動の代表」の項を読んでおいてください。さらにセミネールXI巻(この『不安』のセミネールの翌年度のセミネールです)、1964年6月3日のセッション(XII
「主体と<他者>(II)」)を読んでください。
質問者Y:フロイトの制止、症状、不安の図(図4)についてですが、矢印の向きに、「difficulté困難さ」や「mouvement動き」が大きくなるとするならば
Angoisse不安がsymptôme症状より動きが大きいというのがよく分かりません。symptôme症状の方が目に見える形で、動きがあるように感じますが・・・。そのあと、図5で空欄を埋めていく過程で、émotionとémoiの違いがよく分かりません。émotionが、symôtomeと同じレベルというのは分かるのですが、émoiが「障害、力の衰えが現れてくる」ということであれば、mouvementの軸としては、émotionの方が後に来たほうが分かりやすいのですが・・・。
荻本 :フロイトは『制止、症状、不安』の第IX章の冒頭の箇所を読んでください。ここで、フロイトは
・・・ 制止も症状といえると書いていますが、もちろんこのタイトルが示しているように、制止、症状、不安は別の事象です。不安という情動が溢れ出さないように繋ぎ止めておくために症状は利用されるのです。強迫神経症者に不安を引き起こすための一番の方法は強迫症状を無理矢理奪おうとしたときであるのはご自身の経験からも解るでしょう。不安について、例えば抑圧と不安とではどちらが第一義的なものか、といった問いに対して、フロイト自身、二転三転しています。いまは不安というものを第一義的なものと捉えてください(荻本医院のHP上の『神経症』を覗いてください。工事中になっていますが、ラカンでフロイトにけりを付けたいと小生は思っているんです
・・・ )。後のセッションで一寸触れますが、ヒステリーを形容する用語であるbelle indifference(「美しき無関心」といった誤訳がまだまかり通っているのには呆れますが)からして、かの女(かれ)に動きがあると思えますか。それこそ逆転移のなせる業でしょう。
émoiとémotionとの位置について、・・・ 小生もまだよくわかりません。小生に間違いがあったとしてもです。つまり、この間違いに気づいた後もなんだかラカンのレトリックの罠に嵌ってしまっているような気がしています。小生はこのセミネールを通して2回は読んでいますが、さらに精緻な読解を重ねてゆくうちなにか見えてくるような気もします。いずれにしても、この両者の関係について、またこの3×3の図について、1962年12月19日(小生の解説を読んでみてください)空欄は埋まりますし、1963年6月26日(最後からふたつ目のセッションです)まとめて取りあげていますので、その時までのお楽しみにしておきましょう。
質問者Z:曲面のトポロジー、特に射影平面についての説明がありましたが、ラカンがなぜこのようなものを導入したのですか。精神分析を把握するための概念装置としてなのでしょうか。
荻本:逆に精神分析の経験(事実ラカン自身しばしば l'experience de l'analyse
という言葉を発します)がトポロジー的構造をもっているといえます。ここで言う経験とは ・・・ 、概念装置とあなたは言いましたが、そこになんらかの先験的感性論とか悟性とかを措定しているように聞こえてしまいます、経験によって、なんらかの概念装置が失効してしまうような経験なのだと思います。1962年11月28日のセッションの小生の解説を読んでみて、感想を聞かせてください。
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