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ラカン勉強会

(6) 1962 12 19 水曜日

黒板には図23が描かれています。

 ラカンは、自分が分析している分析主体がセミネールに参加することを、一部の反対意見を押し切って奨励しています。こうした分析主体の分析セッション中に漏らした言葉なのでしょうか、これに関連して、仏訳が出たばかりのフェレンツィの『性理論についての一研究』1)へと話題が及び、この著者つまりフェレンツィ自身はとくに強調していたわけではないが、と断りながら、性というものが発達を通じて、成熟し調和のあるもの、統合性へと至るもの、といった謬見の批判がなされます。

1) Versuch einer Genitaltheorie, S. Ferenczi, Leipzig-Wien-Zurich, Internationale psycho-analytischer Verlag, 1924.

 例によって、(独文-これがオリジナルなのでしょうか確認できません)からの仏訳のまずさを指摘します。かりに性の発達というものがあり得ると仮定しての話ですが、女性の性の成熟は、男性のそれに規範をおくとフェレンツィはしていますが、最終段階において、独文では、eine ziemlich unvermittelte Unterbrechung、ラカンの仏訳では、「(女性の性の実現は)大多数の例において、ほとんど(男性の性の)媒体を経ず、割り込み ・・・ 」といったようになされます。これはハンガリーの分析家の頭の中にある発達の正、反、合といった自然の合目性には合致しない事象であり、ラカン曰く、「この割り込みは行き止まりであり、(男性の性)の媒体による発達の埒外にある」ことになります。この割り込みをフェレンツィは、「クリトリス(女性版ペニス)から膣への性的移転déplacement de l'érogénéitéによって特徴づけられる、と述べ、ついで、分析の経験からもわかるように、つぎのように想定せざるを得ない。つまり女性においては、膣のみならず、身体の他の部分も同様に性器化される可能性がある。ヒステリーにしたがえば、特に乳首とその周辺領域もそうなのである」2) (V. A. p.60)としています。

2) V. M. ではこの件はフロイトが述べているようになっているが、実際はフェレンッツィの上掲論文の一部です。以下原文を引用します。

Die soeben kursorisch geschilderte Ausblidung der Genitalsexualität beim Manne erfährt beim weiblichen, Wesen eine meist ziemlich unvermittelte Uterbrechung. Sie ist vor allem gekennzeichnet durch die Verlegung der Erogeneität von der Klitoris (dem weiblichen Penis) auf dem Hohlraum der Vagina. Psychoanalytische Erfahrungen drängen uns aber die Annahme auf, das bei der Trau nichit nur die Vagina, sondern auch andere Körperteile nach Art der Hysterie genitalisiert werden, so vor allem die Brustwarze und ihre umgebung.

ここで言えることは、ヒステリーの他の機制とまったく等価の機制は、まさに膣が性的関係において果たす機能にみるしかない、とラカンは強調します。

 このことは当然のことなのですが、欲望の機能における空の場所を示すわれわれのシェーマによれば、少なくとも件のパラドックスを目の当たりにするでしょうし、それは次のように定義されます。享楽の場所、享楽の部屋は、当然あります。なにせ(性的)経験でもそうですし、解剖学や生理学もある器官に位置づけます。しかしながら、たしかなことは、この器官は無感覚なのです。神経が切り離されているように感覚が呼び起こされないのです。性的享楽の究極の場所では、これはなんら神秘もありませんが、耐えられないぬくもりと他では味わうことのできない粘液に包み込まれて、灼熱の液体の洪水を流し込むのですが、この場所が直ちに感覚的反応を引き起こすことは断じてないのです(V. M. p.87)。

 性のgénital成熟と性愛のsexuel成熟と通事的発達の最終的合流点は膣の享楽と呼ばれる想像上の神話的構築を生みますが、欲望の機能に刻印されている空の場所というパラドックスにより裏打ちされているのです。因に生理的な意味での性つまり生殖と性愛との関係については、依託Anlehnungという概念を参照してください(G. W. V, pp.82、『精神分析用語辞典』、10-12頁)

 でも話はここでおしまいではありません。1960年のアムステルダム市立大学で開催された精神分析国際会議でのラカン自身の報告3)について話が及びます。

3) J. Lacan, ≪Propos directifs pour un congrès sur la sexualité féminine≫, dans Écrits, pp.725-735, Paris Seuil, 1966 ; 邦訳、ジャック・ラカン、『エクリ』III、「女性の性欲についての会議にむける教示的意見」、203-221頁、佐々木孝次訳、弘文堂、1981年

膣という器官を性の発達史のなかで、つまり通事的に捉えるならば、いわゆる神経症の段階échelle des névrosesにおいてヒステリーはもっとも進化した神経症ということになるとラカンは言います。だが臨床の現場では、ヒステリーは神経症としては初段階のものとみなされており、例えばその上に強迫神経症が構築されるとされます。また臨床像からいえば、ヒステリーを精神病、精神分裂病(統合失調症)との相関関係で論じられることが多いのも事実です。

 唯一われわれに許されていることは、欲望の共時的構造に関係づけることであり、そこにブランクの場所、空虚の場所を、欲望が構成される場所そのものとして指し示すことです。しかしこの欲望が構成される場所に辿り着くまでには障害があり、迂回を強いられます。この迂回路が不安なのです。

 図24の説明が漸く始まります。Aすなわち<他者>は平面鏡ですが、無限に広がった平面ではなく切り取られた平面です。この切り取られたという効果でこの鏡上に、視点をどこかにおくとなにかが見えてきますし、別の場所に視点を据えると見えなくなります(『エクリ』所収の「ダニエル・ラガーシュの報告についての考察」参照のこと)。この効果から、不安(Xで示されています)は枠に収まっている、とラカンは言います。以前のセッションでも触れた地方での会合でもテーマとして取りあげた幻想に話が及びます。『狼男』の夢についてはラカンも何度も取りあげているのでご存知のことと思います。(窓)枠のなかに現れてくるもの、これをラカンは幻想として扱います。光学シェーマの平面鏡の枠に現れてくるものは主体の位置によって異なります。ラカンはここで木というものが関係する例をふたつの例を挙げます。ひとつは『狼男』では木がオオカミを支えています。もうひとつの例は精神分裂病の少女の絵に現れてくる木で、この木そのものが支えられているのです(V. M. p.200-201にこの絵を観ることができます)4)

4) J. Bonbon, psychopatholiogie de l'expression. Rapport de psychatrie présenté au Congrès de psychiatrie et de neurologie de langue françaiss a(60e session, Anvers, 9-14 juillet 1962) paris, masspm 1963. p.63, 以下Bonbonの発表したIsabellaの描画の様子を以下に引用します。

イザベラは8歳のとき精神分裂病に罹患した。発病当初、催眠分析により、かの女には不安状態état d'anxiété、失望感sentiment de frustration、強い罪責感、反抗心、攻撃性、それと同時に漠然とした被害念慮が読み取れた。治療の甲斐なくかの女は周囲とのコンタクトを拒絶するようになる。部屋に閉じこもり、ベッドに臥したまままったく動こうとせず、自閉、不感、無為、みかけ上の無関心が支配した。ひと言も喋らず、一文字すら書くことなく年月は過ぎる。ある日かの女の気の向くままでよいからと、デッサンと描画のための用具が与えられる(1955年)。かの女の美術創作が始まる。一人きりの部屋でベッドのなかでデッサンは描かれていった。注目すべきことは、同時期にかの女は言葉を取り戻したことだ。しかしかの女の言葉は意味のない短いフレーズからなる理解不能なものであった。一連の文書と画集が作成されたが中心テーマは「目」であった。因に、「目ー魚」という新造語paramorphismeが見出されたが、この組合せ文字を筆者は異なる国の4人の分裂病患者に認めている(Borisについては既に述べている)。この「目ー魚」はけっして一義的ではないが、罪責感に裏打ちされた性的脅威を表していることがある。この「目」シリーズの最新の描画は一本の木が描かれており、幹は極めて意味深長なまなこregardsの監視つきのものである。描画を終えるに際して、イザベラは木の輪郭をカラーの線で強調し、木の葉を描き始めたかと思われたが、余白がないので、さらにその勢いで筆は急反転し、はじめて文字らしき意味をもたないフォルムが出来上がる。直後にこのフォルムの下の切り落とされた枝の端から、それまでと同じ素早さと自在さをもって、かの女は花柄模様の文字記号を走り書きする。それはかの女の妄想を解く鍵となるフレーズ、正確に、見事なまで的確に妄想を表すフレーズであった。≪Io sono sempre vista≫「わたしは、いつも見張られている」と。

ラカンはイタリア語のvistaが両義的だとします。フランス語のvueと同様、主語の補語となる動詞voirの完了形「(わたしが)見られる」を意味するのと同時に対象としての名詞la vue du paysage(景観)をも意味するからです。

 「なんの前触れもなく、不意に」という表現は、『狼男』がかれの夢について語るとき出てきます。仏訳(Cinq psychanalyse, P. U. F, p.342)では ・・・ Tout à coup la fenêtre s'ouvre d'elle-mêmeと始まります。たしかにこの夢は無気味です。でラカンも再びdas Unheimlicheに話が戻ります。このdas Unheimlicheとは、「なんの前触れもなく」、つまり、幕開けに際しての期待Erwartung, attenteとかの暇も許されないで、その光景が枠組みのなかで既に起こっていることとラカンは言います。フランス語でdas UnheimlicheあるいはHeim, Geheimnisとの関連でhôteという言葉を持ち出しますが、語感が違うということで、ここではétymologiqueな話は展開されませんでした。これは小生の記憶の錯誤でした。デリダがDe l'hospitalité(邦訳 : 『歓待について』、広瀬浩司訳、産業図書)に書いてあったことと記憶が重なっていました。Dictionnaire historique de la langue françaiseを開くと、hôte(この語自体、客をもてなすホストの意味も、もてなしを受ける客の意味もあります)はラテン語hositire(差別、格差をなくす、補償するといった語義があり)から派生し、補償の意味からhostia(仏語hostie), 対等な扱いを表すhostis(hôte), hostes(étranger), hostis(ennemie), hostilis(hostile), hospes, hospitisからhôte, hôtesseさらにotage, hospitalisからhôtel, hospitalisからhôpital, hospitalitasからhospitalitéと実に多様で意外な語群が生じてきています。ラカンはhôteにはすでにhostileが含意されている(語源上の問題なのか、ポトラッチ的意味を汲み取るべきか)ことを述べるにとどめていますが、後ほど、sacrifice(犠牲)との関連でhositieも出てきます。さらには日本の「家」の問題はunheimlich/heimlichには還元できないとしても根が深い問題ですし、「客」という言葉も「招かざる客」を含意して用いられます(暴力団の事務所に警察の家宅捜査が入るとき組員は「お客さんだ!」と言うでしょう)。客死などはまさにterre étrangèreにおける死です。

 枠のなかでのdas Heimlicheの出現というものが不安の現象なのであり、それゆえ、記述心理学が定義するように「不安には対象がない」とするのは誤りですが、ただ不安の対象とは、準備された,構造化された懸念appréhensionとは別の対象です。構造化された懸念とは、なにによって構造化されているのかというと、畝に直角に切れ目を入れ、つまり一本の線trait unaireの切れ目を入れ格子状にすることによってです。「然りC'est ça」と言ってひとは口を閉じます。C'est çaと言っているときはいわば口を切開します。その後で唇は閉じられるのです。わたし(ラカン)はこう言います。唇は切開され、その後主体の上に閉じられた手紙となります。前回のセッションでも説明したように、他者の足跡が残した稜線をならして消してしまうことによってこの主体を差し向けます(V. A. p.63)。シニフィアンは世界をつくります。語る主体の世界をつくるのです。この世界での本質的な特徴は、そこでは欺くことができることです。不安は、切り口であり、これがなければ現実le réelにシニフィアンが現前し、機能し、登場し、畝をつくることはあり得ません。先ほど不意にやってくるもの、客の来訪、知らせla nouvelleとラカンは言いましたが(ラカンはさほど言っていません、デリダや小生の方が言っているかもしれません。しかしラカンが最初に仄めかしたのです)、こういうものは予感(ラカンはpressentimentと言ってからsentimentのpréでありsentimentに先行するもの、あるsentimentを生むものと言い直します)です。不安というものから始まれば、どんな転轍も可能です。結局のところ、それはわれわれを待ち受けていたもの(ce que nous attendionsですが期待していたものとは同じ語attendreでも語義がまったく異なります)であり、欺くことのないものであり、疑いようがないものです。臨床的には不安から疑念、躊躇、強迫神経症者の両価的賭けへの移行がありますが、この両項は同じレヴェルのものではありません。不安は疑念の原因です。では確信certitudeとは。ラカンはこう言います。「行動すること、それは不安からその確実性certitudeをはぎ取ること、不安の転移(transfertですが、フロイトにおいても転移とは第一義的には表象間の転移あるいは局所論的転移を意味していました。ですからラカンにおけるシニフィアン間での転移というような用い方は字義に即している用い方といえます)を操作することです」、と(V. A. p.64)。ここでは、『エクリ』所収の「論理的時間と予期される確実性の断言」(佐々木孝次訳)を参照してください。注視の時間、了解のための時間、結論の時間において、了解の時間は想像的なものに属するいわゆる相互主観性によって支配される時間で、結論の時間はけっして論理的に演繹された確実性が保証されるときではありません。行為が一種の賭けであり、しばしの時間の躊躇の時間がこの確信を生むのです。

 ここに来て、漸く図4のブランクをラカンは埋めます。angoisseの上はpassage à l'acte,左隣はacting-outです。しかし、このpassage à l'acteとacting outについての説明はこのセッションではまったくなされません。最初のセッションで述べた、embarrasとémoiについてコメントがなされるだけです。embarrasが余分なほどあることを示している一方、émoiは欠乏しているものだとされます。émoiは能力の欠如であり、esmaier欲求において欠如している経験だとされます。しかしながら、われわれが関わる問題において、余分にあるということは、われわれは自足していることを意味し、逆に、われわれに欠乏がもたらされると、よりによってわれわれは困惑するil nous embarrasseとひとは言いますが、どうしたものでしょうと。

 このセッションは学期の最後にあたり、終わりの方は話がコロコロと変わり、はっきりいってまとまりがありません。現象というものは思考によって支配されるとシニフィアンの転移によってつぎつぎに刷新されるがこれは騙しduperieだとされます。そのようにして会計を粉飾することすらできると。シニフィアンと痕跡との関係についての回想もありますが、これはembarrasserのsiginificationに齟齬が生じてしまったことの釈明と(たしかにUn signifiant ne signifie rienですが)、「不安とは、この(シニフィアンの)ゲームに手を出さないもの,加わらないものだからです」と言うためです。現実le réelからやってくるものは騙しませんから。ついでハンス少年の症例から、かれがアリストテレス級の論理学者だと言い、「あらゆる存在者にはペニスがある」といった全称肯定命題が切り崩され、いろいろな命題に変化するさまを述べていますが、命題論理A, E, I, Oについて緻密に述べられている前年度の≪identification≫1962年1月17日のセッションについては前掲の向井雅明氏の注釈を参照してください。この後「了解」批判があり、ハイデッガーのSorgeについてほんの一寸触れますが、この問題は新しくヘブライ語から仏訳されたエルサレム聖書にすり替えられますが、この話も長続きせず、ユダヤの神からキリスト教が小精神病的逃避の産物としてプラトンの神へ逃れたことが語られます。ユダヤの神はEcclésiaste(日本語にはまだ翻訳されていません。ヘブライ語Qahalの訳で「会合」といった語義があります。当時はシナゴーグはあってもまだ教会はありませんでしたから)において、Jouis !と命令するとラカンは言っていますが、フランス人でエルサレム聖書にそこそこ詳しいひとに訊いてみても、そのような箇所は見当たらないとのことです。またこの神の命令に対する「わたし」の答えはJ'ouïsですが、これはouïrという動詞の単純過去であり、神との対話としては少し変です。次に割礼の話に及び、これを去勢や去勢コンプレックスと結びつけるのはおかしいとラカンは言っています。後に包茎手術の際切り取られた包皮についてトポロジー的な解釈もなされますが、ここでは駆け足で通り過ぎます。ボードレールの『悪の華』のL'héautontimorouménosのなかの1行Je suis la plaie et le couteau !だけが読み上げられます。割礼との関連だけで終わらせてほしくない興味深い詩ですが時間がありません。Che vuoi ?はここでもQue me veux-tu ?と翻訳され、欲望と法との関係についてのフロイトへの問いなのだとされますが、la Choseを前にしてNolem, Volem、つまり有無を言わさず、どっちにしろ同じである、ということになります(つまり、欲望はそもそも法に従うものだということです)。Écrits所収のLa chose freudienneのことが頭をかすめます。ディアナとアクタイオンの物語に言及しようとしますがタイム・アウトです(このテーマはクロソウスキーとの関係でいろいろな解釈が可能だと思うのですが ・・・ )。 (2007/10/04)