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ジャック・ラカンについて

ラカンにおいて、普遍判断と存在判断の区別は、フロイトの「否定」の解釈を出発点として成立してきたものであるが、とくにセミネ−ル9巻『同一化』(未刊)において中心テ−マの一つとして取り上げられている。
同一化に関してラカンは、フロイトの『集団心理学と自我の分析』,・,「同一化」の読解を通 じて、三つのタイプを区別しているが、ここで一番重要なものは二番目の同一化、すなわち「一本の線」einziger Zug,trait unaire による同一化である。この「一本の線」とはさいしょのシニフィアンであり、ラカンの主体の式$においいて、主体の分割 refente du sujet を行う縦線によって示されている。シニフィアンは「もの」 la Chose を消失させることによって、現実界に純粋な差異をもたらす。
差異とはあるものに裂け目を入れ、分割させることによって生ずるからである。同一化はシニフィアンによってもたらされる以上、A=A という同一性を拒むものである。なぜならばシニフィアンはそれ自身と同一のものではないからである。あるシニフィアンは自余のシニフィアンではないものとしてしか定義づけられない。 つまりあるシニフィアンによる同一化とは、別の二つのシニフィアンの間の蝕に同一化することなのである。それゆえ、主体の同一化をもたらすシニフィアンは、他のシニフィアンに対して ‐1 と表記される。主体が〈他者〉の欠如に同一化することである。結局のところ、主体とは、‐1 によってその痕跡が記される空虚な場所に、他のシニフィアンがこの場所を換喩的な運動をもって占める事態をいうのであり、ここからラカンの有名なテ−ゼ、「あるシニフィアンは別 の一つのシニフィアンに対して主体を代表する」が導きだされるのである。  セミネール『同一化』の 1961.1.17.のセアンスで示されたパ−スのダイアルにおいて、「線のない」pas de trait 四分の一円は主体の場所であるとされる。

ラカンは pas と ne とを区別するが、これはダムレットとピションのフランス語文法の諸研究にヒントを得たものである。 ダムレットとピションは、否定が二肢的なものであるとして、 ne と後節語 pas,point,jamais,などのあいだに機能の違いがあることに着目している。 ne において重要なのは ne discordentiel である。 一般の文法書で虚辞のne, ne explétif といわれているものはこのne discordentiel に含まれる。 『フロイトの無意識に置ける主体の転覆と欲望の弁証法』のなかでラカンは、何人かの文法家によって、こ の虚辞のneが言表 énoncé のなかにおいて言表行為の主体 sujet de l'énonciation が認められるといった指摘がなされているのに対して、avant qu'il ni soit avéré qu'ils n'y comprennent rien 「かれらがそのことでなにも理解していないのが明らかになる前に」という文っからこのneを省略してみたとき、この言表行為の主体である私(ラカン)は否認称的なものとなってしまうとしている。つまり言表行為の主体と言表の主語 sujet de l'énoncé とは分裂しているのであり、ここから主体の消失 fading du sujet は説明される。フロイトによれば「否定 dénégationは抑圧されたものを知る一つの方法であるが、否定によって回帰してくるのは抑圧の過程の結果 だけであり、その表象内容は意識へとは到らないものである。否定は抑圧された存在者(後になって明らかにされるが、この存在者は実際には存在しない)についての存在判断にかかわるものであるが、存在判断 jugement d'existence は属性判断 jugement d'attribution(これは普遍判断と一致する)から二次的に生ずるものである。後者が存在者の属性という条件から導き出されるのに対し、前者はこの判断が特殊で個別 的な存在者に適用できるかいなか、つまりこのような存在者が存在するかいなかにかかわる判断であるからである。ラカンは属性判断を後接語 pas に結びつける。ピションは後接語の機能についていくつかの例を挙げているが、そのなかでJ.マルシャクというジャ−ナリストによるエステルアジィ(ドレ−フュス事件の真犯人と目されたハンガリ−しゅっしんのフランス軍将校)のしに際して書かれた論説のなかの次のような表現が興味深い。「ドレ−フュス事件は、わたし(エステルァジィ)にとって、以後もうけっしてペ−ジが開かれることのなくなった書物である。もし開かれるようなことがあったとしたら、なんとも悔やまれたことであろう Il dut se repentir de l'avoir jamais ouvert.」 ピションは、悔やまれる se repentir de という動詞により、現実に存在した事実がまずありながら、それが感情的に過去から払拭されていることが示されているとしている。かれはまた次のように述べている。

言語は、そこからイメ−ジを引き出すことができる人間にとって、無意識の深淵を映し出す見事な鏡である。悔恨 repentirとは、過去の出来事、とり返しのつかない出来事が、実際には起きていなかったのだとする願望である。 フランス語においては、この否認 scotomisation の願望が排除によって par le forclucif表現されて……