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ラカン勉強会

(4) 1962 12 5 水曜日

黒板に図14、図15、図16が描かれています。

 前回に引き続き、対象というものを分析的経験のなかで深いところまで追究してゆくと、不安を経由してそこに向かうことになり、とくに不安の位置というものが重要で、それがどこに位置するのか指し示すことがこの日のセッションの目標であることが告げられます。

 ラカンはロワヨモンでのジャン=ヴァール主催の『弁証法』という主題の会議(かれが言うにはヘーゲリアンの会合)で発表を行なっていますが、会場にいた哲学者からは強い反感をともなったリアクションで迎え入れられた、とのことです。この発表は『エクリ』所収の『フロイトの無意識における主体の転落と欲望の弁証法』として読むことができ、この時代のラカンの思想が集約されてまとめられているテキストとなっています。ラカンは哲学者たちのリアクションは、かれらにつき突きつけられた対象というもの,欲望の対象というものが悪夢と呼ぶに相応しいもの、悪魔主義のこけおどしと映ったのでは、と懐疑的です。

 切り離された部分(前セッションでのクロス−キャップの切断により得られた鏡像には現れない部分を思い起こしてみましょう)をラカンは対象のモジュールと呼んでいます。フォーダー等いわゆる認知科学の提唱者によりしばしば用いられ、しかしながらその定義も定かでないモジュールという言葉をラカンがこの年(1962年)にすでに用いているのは驚きです。この切り離された対象についてラカンは、図14上で、<他者>の場所において、つまり<他者>によって認証され、i'(a)と右側に映し出されたもののみが、i(a)を保証するものだとしたら、新たに描かれた図17上では、欲望は、対象というものが、その不在、「現れの可能性」(V. A. p.40)(β)が現前(α)を裏打ちするという構造のなかでしか関係性をもちえないことになることを説明します。対象に関して、なにかが現れると言う場合、幻想のなかにおいてのみそういう言い方が許されるのです。ついで図11に戻って、前回のセッションでの説明を補足します。- φはリビドーの予備タンクとの関連で語られました。リビドーの予備タンクとは、その中に入っているリビドーが備給されないままにあることを意味しています。なにに備給されないかといいますと、鏡像、自己の身体、一次性自己愛、自体愛autoérotisme、自閉的享楽jouissance autisteといったレヴェルにおいてです。みかけ上はわたしの同類semblableである他者との、つまり性的パートナーとの交渉の余地を残しておくためです。

 不安がやってくるとすると、この- φの場所です。そして不安とは<他者>との関係性のなかでは去勢不安として示されます。この去勢不安こそフロイトにとって取り払うことのできなかったストッパー(buteeをショック・アブソーヴァーと訳しましたが,フランス語の原義からかなり外れているので、こう訳し直しました)です。それは神経症にとっての緩衝地帯でもあります。神経症者にとって、去勢不安は決定的な行き止まりではありません。想像的次元で去勢が形をなすのは、患者にとってかれの同類にリビドー的備給が施され、その像が近づいたとき、この想像的シーンに外傷的な事故による裂け目が露になるときです。
 神経症者が後ずさりするのは去勢を前にしてではありません。かれの去勢をもって<他者>に欠如をもたらすことに踏み込めないのです。かれの去勢を実りのあるものにして<他者>が機能することに保証をあたえることから身を引いてしまっているのです。この保証があってこそ、<他者>は際限のない意味作用の送付のなかで姿をくらまし … (sic)この<他者>の場所において、主体は自らの運命をゆだねます。しかし運命は終わりのないものではなく、歴史の大洋のなかで消え去り … (sic)歴史とはなにかといえば、巨大な虚構と答えるしかありません。…(sic) 主体とこの意味作用の宇宙との関係を保証すると、どこかに(<他者>における‐クロードゥ=コンテによる加筆)享楽があるとお考えでしょうか。このことについては、ひとつのシニフィアンが必要なのですが、このシニフィアンはそもそも欠如しているのです。主体が支払うのはこの欠如の場所に見合う足し前なのですが、主体はそのように督促され、かれ自身の去勢といったしるしで支払うのです(V. A. p.41)1)

1)「送付」renvoi、「姿をくらます」se dérober、「運命」といった言葉から、この件はハイデッガーの影響を考えざるを得ません。いま手許に邦訳版がありませんので、確認はできませんが、渡辺二郎著『ハイデッガーの存在思想』(勁草書房)によれば、1956-57年の講義Der Satz vom Grund,邦訳『根拠律』(辻村公一訳)には、運命Geschickをめぐり、存在が「己れを送ってくる」sichzuschickenとは「己れを退ける」sichkentziehenとおなじことであり、これはドイツ語のschicken「送る」という動詞がGeschickとかSchicksalといった「運命」を意味する名詞と関連があり、これは、存在の真理をめぐるlogosのalèthéia、lèthèに相当するEntbergen、BergenないしEntzugという語によって規定されるハイデッガーの存在と存在者の関係に基づいているようですが、この両者の関係をラカンの<他者>と主体に置き換えれば符合するでしょう。

 分析家が分析主体に対して行なう解釈も去勢の解釈であり、分析家はその瞬間へ分析主体を導く、とラカンひと言付け加え、ついで『制止、症状、不安』でフロイトが唱える不安信号論と旧来の不安理論との関連について、ラカンはそこには旧理論の放棄も新機軸の打ち立てもないと看破し、1919年に発表されたフロイトの論文das Unheimlicheの分析にさっさと移ります2)

2) das Unheiimlicheの分析は、翌々週のセッションで再度とり上げられます。家Heimと関係して、ラカンは、お得意の言語上の博識さをなんとかフロイトに対抗して披露できないものかと、ねらっていて的中したのが hôteというフランス語でした。これはわれわれ日本人にも無関係ではいられないテーマです。

 まずラカンはフロイトの言語学的な立論を評価し、unheimliichの語義はその反対語heimlichにも同様に認められることについては原テキストに準じて説明します。ついで、E.T.A.ホフマンの小説『砂男』のあらすじが述べられ,眼球がこの小説でテーマになっていることが明かされます。みなさんも、少なくともフロイトのテキストは邦訳版でよいですから読んでおいてください。

 unheimlich/heimlichとの関連で、家Heimについて、欲望は他者の欲望le désir se révèle comme désir de l'Autreではなく、「… ここでは、他者(V. A.では小文字)のなかのdans欲望、しかしこう言いましょう。わたしの欲望は<他者>のなかに入ってゆきます。そこには太古の昔からそれが待っています。わたしである対象の形をとって。つまり、わたしの主体性からわたしを追放してしまい、それは,主体性が結びつくすべてのシニフィアンを溶解させてしまいます。もちろん、こんなことはしょっちゅう起きるものではありません。おそらくホフマンの小説のなかでのみ起こることなのでしょう。『悪魔の霊酒』で起きていることははっきりしています。紆余曲折のある長いストーリーの各局面で、フロイトが述べているように、読む人は混乱してきます。この混乱は、迷宮構造がもたらす錯綜です。たしかなことは、これらの各局面で、主体がかれの欲望に辿り着くとするとしても、その都度自分の分身に入れ替わることになるのです」(V. A. pp.42-3)。フロイトが言うように、虚構の領域において特別に、現実では束の間の出来事でしかない「無気味な」体験がテンションを保ったまま展開されるのです。つまり虚構は、この展開を眺めるには絶好の視点を提供してくれるのであり、この点から見ると、臨場感を持ってそこに生きることもできます。これが幻想というものです。幻想のなかにあっては、われわれは、欲望というものを一寸疑ってみてしまうのです。ラカンによる幻想はsujet barré désir de (a)ですが、こうも読めます、「わたしがわたしを見る(ドッペル・ゲンガーの図式です)ことから導き出される、わたしであるこの対象を前にして、他者(V. A.では小文字)は、いうならば、気絶しているのです」(V. A. p.43)。

 図17、図18が描かれます。幻想についての倒錯と神経症の図です。倒錯においては、aはAの壁の左側に置かれます。主体はaを見ることができません。sujet barréは右側です。ゆえに、こう言うことができます。倒錯者の主体は、無意識的なまま(あたかも優れた俳優が、リヴレットに書かれた台詞にしたがって、自ら演じていることを知らないまま-小生)自分を<他者>の享楽に忠実に奉仕するものにしてしまう、と。神経症者にとっては、神経症者はいつもそうなのですが、とラカンは繰り返し言います。神経症者は幻想を特別なやり方で利用します。こうです。幻想が生じてくると、それを<他者>の場所(いましがた俳優に例をとったのは、<他者>の場所、<他>の場所、<他>のシーン、der andere Schauplatz、つまり無意識といった連関があるからです)に位置づけます。その支えをなにかに求めますが、なんらかの機会を利用しては、そのシーンで演じられているは倒錯(劇)なのだとこじつけます。神経症者は倒錯的幻想をもっています。分析家の悩みの種です。倒錯は本当に倒錯なのか、倒錯が倒錯として機能しないとしたら、倒錯的幻想は神経症者にいったいどうして役立つと言えるのだろうか、といった具合です。ともかくも神経症者は然るべきときに幻想を利用します。aはなんらかの構造を伴い、家Heimの場所に現れます。図18の右の上です。なんのために利用するのか、不安から身を守るため、不安に蓋をするためです。

 やや本題からはずれ、ヒステリーにおける対象aについて、美しき肉屋の女将の夢とアンナOが引き合いに出されます。belle bouchèreのケースでのキャビアは、かの女が持っている他の多くのものを隠しておくための餌であったのですが、亭主はこのpetit rienであるキャビアも定食もろともがつがつ貪る大食漢でこれでは餌にもなりません(なお、このbelle bouchèreの夢の分析は、Les formations de l'inconscient の1958年4月30日、5月7日、同14日のセッション、邦訳 : ジャック・ラカン、無意識の形成物【下】157-227頁で詳しく論じられています)。アンナOの場合は対象aがなにを指しているのかはっきりしませんが、ブロイアーはこの餌を飲み込み、暫くしてから吐き出してしまった。フロイトは自身神経症的であり、知的で自らの不安を欲望の前にあるものとして捉え利用することができた。幻想のなかの対象をX線像に映し出してみるという冷静さを兼ね備えていた。このようなフロイトの態度のおかげで、われわれは、幻想を通じて、分析のメカニズム、転移の理性的使用へと入ってゆくことができるのです、とラカンは余談を締めくくります。

 神経症者の幻想と対象aに話が戻ります。神経症者の幻想における虚偽の対象の扱いの背後にある現実とは、ひとことで言えます、要求です。

 神経症者がもとめている当のもの、それはひとがかれに要求してくれないかとする要求です。神経症者はひとがそのことで懇願するよう望みます。かれが唯一したがらないこと、それは対価を支払うということです。おおまかに言うとそういうことなのですが、このことを分析家はフロイトからはあまりはっきりと説明を受けていません。だからといって、分析家が分別臭い道徳主義によって研磨されたすべすべの坂を滑って行き、変な幻想をもち、分別と宗規で凝り固まった古臭いお説教に引きずり込まれてはいないよう念じています。献身oblativitéの幻想のことを言っているのです(V.A. p.45)。

 oblativitéという言葉は後日のセッションでも出てきます。このセミネールのキー・ワードのひとつとも言ってよいでしょう。さて、もちろんのこと、分析家は神経症者がなにも与えたがらないことに気がついています。与えるということに困難が生じるのは、受け入れることの次元に問題がある、禅問答みたいですが、いずれにせよ、神経症者はなにかを与えようとする気になればことはうまく運びます。

  分析家が性的成熟などという美辞麗句をうたい文句にする問題の輩だとすると、そうなると  
分析の場とはと贈与donを与える場のようになってしまいますが、分析家が本当にすべきことを見失ってしまいます。分析家が神経症者に教えるべきことは与えることなのですが、なにをかというと、思いもよらないことでしょうが、それはrienであり、それはまさしくかれの不安なのです(V. A. p.45)。

 去勢不安がフロイトが取り払うことのできなかったショック・アブソーヴァーであることは、すでに告げられました。だからここからはラカンの精神分析です。分析家は図18のAの位置に身を置かねばならない、とラカンは始めます。そして自らの罠で、なにも与えようとしない神経症者を捕えようと努力するのです。このこと以外はだれにもやっては駄目で、そうすることによって、神経症者は分析家になにかを提供してくるでしょう。でもこれは虚偽の提供で、それを分析家は受けとる必要があるのです。神経症者は要求を頼みの綱としますが、ここから分析は始まります。分析家が神経症者になにも要求しないので、かれは分析家がかれになにかを要求すればよいなという気になるのです。つまり神経症者は自分の要求を転調させ、それはHeimの位置にやってきます。

 ここでラカンは断念frustration/攻撃agression/退行régressionという3つの術語を並べてきます。神経症者の要求になにも答えないと攻撃が形成されます。攻撃性が向かう先は。鏡像への関係です。「患者がこの鏡像に、怒りを、涸れるまでぶつけてゆくと、その結果、要求が継承されてゆき、それは常に、歴史的にいって、より原初のものへと向かいます。そこで退行そのものへと転調がなされるのです」(V. A. p.45)。ラカンは、では、この退行から患者を前進progressionへと向ければよい,とは考えません。口唇期からも男根的関係を引き出そうとするのはもってのほかです。逆です。涸れつくすまで、底の底まで,ありとあらゆる要求を出し切ったところで、ゼロの要求になります。この大底に去勢の関係を見出すことができるのです。「去勢は、要求の退行期の極限とともに記されるのが認められます。要求の次元が涸れ果てるとともに、その直後に現れるのです。トポロジー的に理解しようとするとそうなるのです」(V. A. p.46)。ところが、ラカンはここでは何らトポロジー的図解は示していません。

 再び脱フロイト色を強調します。不安は欠如の信号ではなく、欠如の支えとなるものの欠陥という二重構造をもったなにかの信号です。それは母親の乳房に対するノスタルジーなどによるのではなく、この対象が間近に迫っているときに生ずるのです。また、不安を引き起こすものは、現前-不在のリズムではありません。不在の可能性があれば、現前も安全性も保証されるからです。欠如は欲望を招きますが、欠如の可能性がなくなったとき、この両者の関係は混乱を引き起こします。母親が常にだっこをしていて、とくにすぐにお尻を拭いてしまう、つまり要求の典型例、要求が消滅しない典型例がそうです。ハンス少年において、不安は母親による自慰行為の禁止に関係していると言われますが、その陰で目立たないのですが強調しなければならないことは、かれが体験しているのはかれに向けられた母親の欲望の現前です。

 最後に次のセッションで取り上げられるテーマが予告されます。<他者>の享楽、<他者>の要求の他者そして分析家の欲望です。 (2007/09/20)

注)緑色は、訳を改定した部分を表しています。