お気軽にお問い合わせください
03-3255-4730

神田にて夜間診療も行っております。
〒101-0047
千代田区内神田2-7-14
山手ビル3号館4F

各種保険適用/
自立支援医療制度
扱っています

地図
ネットで受付(初診のみ)
東京カウンセリング研究所
何冊かの本の僕なりの書評
荻本医院のブログ
ラカン勉強会
セミネール『不安』

荻本医院で行なっている勉強会も、お蔭さまで、少なくとも月一回のペースで続いています。予備的な勉強会はそろそろ終わり、今秋より、ラカンのセミネール『不安』に取りかかることになりますが、先行的に、小生がお話しすることになる内容を、この『勉強会について』載せてゆくことにします。みなさんにとって、予習のために利用できればと思い作成してゆきます。
但し、図については、ページ上に載せるために煩雑な作業を必要としますので、省かせていただきました。図1、図2、図3・・・で示されているのがそれです。ミレール版にはこのような詳しい図は掲載されておりませんので、混同しないでください。勉強会に参加なさる方たちにはプリントしたものをお渡しいたします。
2007年9月6日 荻本芳信

<このセミネールの底本について>

ラカンのセミネールはセッションごとに直接速記録として残されます。この速記録からタイプ印刷がなされます。このタイプ印刷をラカンの秘書部のタイプ印刷と呼びます。いわばマスター版です。

『不安』のセミネールは、タイプ印刷されたもののかなりの頁がラカン自身によって訂正加筆され、それがまた新たなタイプ印刷として流布してきました。またこれとは別に、聴講者の何人かによって、統辞面で修正がなされ、最終的に語ったものditから書かれたものecritとして認められるのです。

このセミネールの録音も残されているが,多くの版(スイユ社の正規版、その他匿名版、ネット上に公開されている版)は、多くの場合、タイプ印刷を準拠としています。

ラカンの秘書部による版からは、ラカンの修正加筆版とは別に、ウラディミール・グラノフ、ピエラ・オラニエ、ピエール・コフマンその他による修正が施された版が生まれ、エリザベート・レポルドゥによって失われていた断片が復元されました。  アミッシュHamiche版、国際フロイト協会Association freudienne internationale版はこの復元されたパッセージも採用しています。

小生が準拠とするのはジャック=アラン・ミレールによる正規版、初期のタイプ印刷版、2003年の匿名版です。問題の箇所はそれぞれの版を比較検証することにします。

凡例
V.M. ミレール版
V. A. 匿名版
G.W. フロイトのドイツ語版全集
 
勉強会の内容
<行なったもの>
第1回「1962 11 14 水曜日」 後記アップ中 2007年10月06日に行なわれました。
第2回「1962 11 21 水曜日」 後記アップ中 2007年11月24日に行なわれました。
第3回「1962 11 28 水曜日」 後記アップ中 2008年2月9日に行なわれました。
第4回「1962 12 5 水曜日」   2008年3月22日に行なわれました。
第5回「1962 12 12 水曜日」   2008年5月24日に行なわれました。
第6回「1962 12 19 水曜日」   2008年6月28日に行なわれました。
第7回「1963 1 9 水曜日」   2008年7月26日に行なわれました。
     
<更新されたもの>
第8回「1963 1 16 水曜日」 アップ中 2007年12月20日に再更新されました。
第9回「1963 1 23 水曜日」 アップ中 2008年1月11日に更新されました。
第10回「1963 1 30 水曜日」 アップ中 2008年1月11日に更新されました。
第11回「1963 2 20 水曜日」 アップ中 2008年1月18日に更新されました。
第12回「1963 2 27 水曜日」 アップ中 2008年1月18日に更新されました。
付記1 アップ中 2008年1月18日に更新されました。
第13回「1963 3 6 水曜日」 アップ中 2008年1月31日に更新されました。
第14回「1963 3 13 水曜日」 アップ中 2008年2月4日に更新されました。
付記2 アップ中 2008年2月22日に更新されました。
 
後記

2月9日勉強会後記第三回目「1962年11月28日」のセッション

ラカンはRiemannについては、IdentificationやRSIで一寸触れていますが、もう少し詳しい説明をNasioに託して1979年のLa topologie et le tempsの最後のセッションで、かれに語らせます。 とりあえず、その部分の試訳を以下に載せます。
La topologie et le temps 15/5/1979 を参照してください。

11月24日勉強会後記第二回目「1962年11月21日」のセッション

The International Journal of Psycho-analysis vol. XXXIV, 1953, pp.177-198, ≪On the psycho-analytic theory of affects≫ by David Rapaport の総括の部分を載せます。Zさん、次回までに邦訳お願いします。

The theory of affects, the bare outlines of which seem to emerge, integrates three components : inborn affect discharge-cannels and dischrge-thresholds of drive-cathexes ; the use of these inborn channels as safety-valves and indicators of drive-tension, the modification of their thresholds by drives and derivative motivaions prevented from drive-action, and the formation thereby of the drive-representation termed affect-charge ; and the progressive ?taming? and advancing ego-control, in the course of psychic structure-formation, of the affects which are thereby turned into affect-signals released by the ego.

質問者Y : 大文字の他者はシニフィアンの宝庫でありながら、そこにはひとつのシニフィアンが欠けていて、無意識の次元において、その欠けたシニフィアンの位置に他のシニフィアンが置き換えられてゆくとして、それが失われた対象を見出そうとする欲望に対応するのだとすると、症状とはこのふたつの事象との関係においてどのように規定されるのでしょうか。

荻本:症状も無意識の形成物です、次の年度のセミネール ≪Les quatre concepts fondamentauxde la psychanalyse≫ p.44 (邦訳『精神分析の四基本概念』の57頁)に無意識の「拍動的」pulsatifな機能という言葉が出てきます。欲望の無意識的、メトニミー的な運動(今まで勉強してきた『科学的心理学草稿』におけるphiニューロンにおける慣性法則にしたがう量の流れに相当します)も反復ですが、ときとしてこの無意識は顔をのぞかせます。しかしながらこの無意識との出会いは常に出会い損ないの出会いです。famillionärをめぐる機知については既にお話ししましたね。金持ちと仲良くなれたら自分も金持ちになれると思うのは願望(BegierdeというよりWunschといった方が、この場合はしっくり来ますね)は叶わぬ願望(とフロイトは言うに止めるでしょうが)どころか、小生が思うには危険な願望です。なぜならば、金持ちは吝嗇だから金持ちになれたのであり、小生でしたら「あなたが金持ちと食事をする機会があるとしたら、必ずあなたが食事代を払う羽目になりますよ」、とやや中立性を欠いた助言をしてしまいます。症状も妥協の産物です(セミネール ≪sinthome≫における症状は一寸状況は違ってきますが)が、あくまで失敗した妥協の産物といえるでしょう。一次過程にしたがったメトニミー的運動に、しばしばメタフォール的な形成物が顔をのぞかせるのです(ラカンはこの箇所でfente割れ目と言っています)が、これも反復です。人生というのは、無意識的メトニミー的流れとときとして起こる失敗の反復なのです。もちろん僥倖と呼べるような出来事もありますよ。例えば宝くじが当たるとか。しかしながら神にとっては、人間にとって希少な当たりくじも大多数の外れくじも、純然たるシニフィアンの組合せである点において価値の差はないのです。

質問者Z:欠如の分有する空というものはいろいろは方法で埋められるけれども、分析家は空を埋めないというところをもう少し説明していただければと思います。

荻本:基本的な3つのことがら、欲求besoin, 要求demande, 欲望desirを区別してください。要求に対する分析家のとるべき態度については、ちょうどこのセミネールの1962年12月5日に述べられていますので、小生の解説を読んでください。

10月6日勉強会後記第一回目「1962年11月14日」のセッション

荻本:まず小生の調べ方が不十分で、間違っている部分を訂正いたします。émoiについてラカンが言っていることはほぼ正確でした。smagareというイタリア語の動詞は実際存在します。小学館の伊和中辞典には、他動詞、1. (魔法や迷いから)覚ます. 2. ≪古≫ 弱らせる, (心を)かき乱す;よそにそらせる, 迷わせる、とあります。またBlochとvon Wartburgの辞典のémoiの項は以下のとおりです。

XII (esmais ; esmoi apparait au XIIIe s., mais ne tromphe qu'au XVIe). Tire de l'anc. verbe esmayer ≪ troubler, effrayer ≫ et ≪ se troubler ≫. d'ou esmoyer, verbe encore usite dans les patois, lat. pop. exmagare ≪ faire perdre son pouvoir, sa force ≫, der. de bonne heure du verbe germanique occidental magan ≪ pouvoir ≫, cf. anc. haut all. et gotique magan ≪ id ≫, auquel se rattachent l'all. mogen et l'angl. to may. Aussi it. smagare ≪ se decourager ≫, port. esmagar ≪ ecraser ≫, a. pr. esmagar, esmaiar ≪ troubler, se troubler ≫. Le sentiment linguistique rapproche aujourd'hui emoi du verbe emouvoir, d'ou l'expression doux emoi (dp. 1835)

とラカンはほぼこの辞書を忠実に引用しています。お詫びをして訂正させていただきます。

質問者X:affect、シニフィアン、抑圧の三者間での関係についてもう少し説明してください。

荻本:この点ではラカンはフロイトとの間に齟齬はありません。ラカンのシニフィアンに一番近いとされて いるフロイトの用語はVorstellungsreprasentanz、日本語で「表象代表」、あるいは「表象代理」と翻訳されています。ラプランシュとポンタリスの精神分析用語辞典の同項と「欲動の代表」の項を読んでおいてください。さらにセミネールXI巻(この『不安』のセミネールの翌年度のセミネールです)、1964年6月3日のセッション(XII 「主体と<他者>(II)」)を読んでください。

質問者Y:フロイトの制止、症状、不安の図(図4)についてですが、矢印の向きに、「difficulté困難さ」や「mouvement動き」が大きくなるとするならば Angoisse不安がsymptôme症状より動きが大きいというのがよく分かりません。symptôme症状の方が目に見える形で、動きがあるように感じますが・・・。そのあと、図5で空欄を埋めていく過程で、émotionとémoiの違いがよく分かりません。émotionが、symôtomeと同じレベルというのは分かるのですが、émoiが「障害、力の衰えが現れてくる」ということであれば、mouvementの軸としては、émotionの方が後に来たほうが分かりやすいのですが・・・。

荻本 :フロイトは『制止、症状、不安』の第IX章の冒頭の箇所を読んでください。ここで、フロイトは ・・・ 制止も症状といえると書いていますが、もちろんこのタイトルが示しているように、制止、症状、不安は別の事象です。不安という情動が溢れ出さないように繋ぎ止めておくために症状は利用されるのです。強迫神経症者に不安を引き起こすための一番の方法は強迫症状を無理矢理奪おうとしたときであるのはご自身の経験からも解るでしょう。不安について、例えば抑圧と不安とではどちらが第一義的なものか、といった問いに対して、フロイト自身、二転三転しています。いまは不安というものを第一義的なものと捉えてください(荻本医院のHP上の『神経症』を覗いてください。工事中になっていますが、ラカンでフロイトにけりを付けたいと小生は思っているんです ・・・ )。後のセッションで一寸触れますが、ヒステリーを形容する用語であるbelle indifference(「美しき無関心」といった誤訳がまだまかり通っているのには呆れますが)からして、かの女(かれ)に動きがあると思えますか。それこそ逆転移のなせる業でしょう。
émoiとémotionとの位置について、・・・ 小生もまだよくわかりません。小生に間違いがあったとしてもです。つまり、この間違いに気づいた後もなんだかラカンのレトリックの罠に嵌ってしまっているような気がしています。小生はこのセミネールを通して2回は読んでいますが、さらに精緻な読解を重ねてゆくうちなにか見えてくるような気もします。いずれにしても、この両者の関係について、またこの3×3の図について、1962年12月19日(小生の解説を読んでみてください)空欄は埋まりますし、1963年6月26日(最後からふたつ目のセッションです)まとめて取りあげていますので、その時までのお楽しみにしておきましょう。

質問者Z:曲面のトポロジー、特に射影平面についての説明がありましたが、ラカンがなぜこのようなものを導入したのですか。精神分析を把握するための概念装置としてなのでしょうか。

荻本:逆に精神分析の経験(事実ラカン自身しばしば l'experience de l'analyse という言葉を発します)がトポロジー的構造をもっているといえます。ここで言う経験とは ・・・ 、概念装置とあなたは言いましたが、そこになんらかの先験的感性論とか悟性とかを措定しているように聞こえてしまいます、経験によって、なんらかの概念装置が失効してしまうような経験なのだと思います。1962年11月28日のセッションの小生の解説を読んでみて、感想を聞かせてください。