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ラカン勉強会

(14) 1963 3 13 水曜日

不安と恐怖の違いについて、前回のセッションに引き続いて、話が展開されます。不安がAngst vor etwasというフロイトの記述に準じ、このvor、フランス語ではdevantという前置詞が決め手になりますが、恐怖の場合は、例えばentgegenstehen「対峙する」という動詞の前綴りで、当然それ自体前置詞でもあるentgegenがそれに相当する、とラカンは言います。さらに、不安においては、既にその一端については説明済みのこととして、現象学的には、と留保つきですが、主体が(対象に、既に=小生)締め付けられ、関わっており、内密のinteme1)のものとなっている、と言っています。そして、不安といわゆる防衛装置との関係については言葉を尽くしているつもりだとも言います。つまり、不安は、裏切ることのないものという表現でその概要は示したのだということです。
 しかしながら、現実界からみると、不安が信号として示される図式を、主体の分裂の図(図47)において、原主体sujet primitifの未知数Xが、その到来avnement、A/Sで表記することができる、<他者>を主体で割るという形で、主体は<他者>の道を通って自己を実現しなければならないのです。
 図の右側には、上から、享楽、不安、欲望と書かれています。円で囲まれéたSは,神話的なものであり、享楽の主体です。
 不安は享楽、欲望を媒体するmédiatrice機能はもちませんが、両者の中間にあります。
 ここで重要な定式が現れます。
 

 ( … ) 享楽は<他者>というものを知らない、ただし、残りものである小文字のaを経由してゆけば話は別である、と。それゆえ、この残りものは演算では処理できない、とわたしが言ったこと、そして、図の最下段に来るもの、演算の最終段階で到来するもの、つまり幻想に嵌り込んでいる主体は … (sic) 欲望の支えとなるもののひとつとしての主体であるということもお解りいただきたい−ひとつの項なのです。というのも、幻想とは、Sbarréがaと対立関係において示されるものであり、この関係は、その多価性polyvalence、その多重性multiplicitéが菱形losangeのもつ性格によってみごとに表されるのです。つまり選言disjonctionΛでもあり、連語conjonction V でもあり、あるいはより大きい>でもあり、より小さい<でもあることなのです。… (sic) S barréをこのような割り算divisionという形の演算として示したとしても、(a)は還元不可能なので、これを数学的に譬喩としては、条件付きでないと駄目だということを断っておきます。つまり、割り算/がなされるとするなら、その域を超えてしまうでしょうし、(a)がSと関係を持つことになってしまい、このSがS barréにおいてa/Sとして関わり合いをもつことになってしまうという条件つきでです。
 なにが言いたいのかと思われるでしょう。言い方を変えて簡単に説明するとしますと、こう言えばいいでしょうか。すなわち、aを享楽の主体の隠喩の一種の関数fonctionと看做してみてはどうでしょうか。こうではないでしょうか。…(sic) aをひとつのシニフィアンと等価のものと看做すかぎりでと。しかしながら、まさにaは、シニフィアンの関数と等価の関数となることに抵抗を示すのです。そうだからこそ、aは、シニフィアンの世界のなかにおいて、常に失われたものとして、意味作用significationにおいては見失われたものとして示されるのです。しかるに、まさに廃棄物,落伍、意味作用に抵抗を示すもの、これらがまさに欲望する主体の基そのものとなるものなのです。欲望の主体というからには、これはもはや享楽の主体ではありません。享楽することを、自己の享楽ではなく、<他者>の場所における享楽、つまりシニフィアンの場所における享楽目指しながら、主体は、この道すがら、欲望する方へ、先取りして身を投じるのです。
 しかるに、身投げprécipitation2)、先取りanticipationがあるとして、この運動は、所定の段階よりも慌ただしく、飛び出し、突き抜けるのではなく、欲望を享楽から隔てる深淵へ近づきつつ、その自己実現をこの深淵の此岸において踏みとどまるのです。この深淵に臨む場所で不安は生ずるのです(V. A. p.156)。

   
1) しかし、後にラカンは、extimeという新造語で主体と対象の関係を説明することとなります(Séminaire XVI, 12 MARS 1969)。
2) このprécipitationという語はpassage à l'acteと相関する語です。最後のセッション(1963年6月3日)において、この延長線上で、(メランコリーにおける)自殺suicideについてラカンは言及します。そこでは、幻想の図における菱形losangeが窓fenêtreとして暗示され、当然、défenstrationが連想されます。
 
 次いでラカンは、不安と時との関係について述べます。不安の時というものが存在するのは確かですが、しばしば、この時、この段階が省略されることがあります。ラカンはフロイトの『こどもが叩かれる』における基本的幻想に話を絡めて説明します。2月27日のセッションの小生の解説を読み直してください。二番目の幻想は、不安の時/段階でもあるのです。分析によってもこの時/段階は明らかにされないこともありますが、現象学的に評定できることもあり、この時によって支えられている不安を越えることができたとき、欲望が確立されます、と締めくくります。

 去勢不安とペニス羨望について言及し、対象aとー(マイナス)との関係に触れますが、これは後のセッション(1963年5月29日)でもっと明確なかたちで述べられますので、ここでは省きます3)

3) マイナスが付されることにより、欲望となるのですが、そこにはラカン一流のイロニーを汲んでいただきたいと思います。ラカンに対して、マッチョで、論敵を徹底してやり込めるイメージが肥大しすぎています。ラカンには、エロスと関連するとき、自嘲的なところautosarcasmeがあるのです。この古典からの一節を引用したのも、ラカンのこのautosarcasmeがあって、と読み取るべきです。ペトロニウスのサチュリコンからの詩の一節を読んでください(V. A. の注〈フランス語〉からの重訳〈拙訳〉です〈岩波文庫版は絶版で入手できません。嘆かわしいことです〉。
  
  これで三回めだぞ。
  手に握り締めるもこのどうしようもない斧は。
  ああ、三回もだ。
  突如キャベツの新芽よりもふんにゃりしやがって。
  我が震える手で振りかざさんとするこの斧や、あな怖しや。
  思うままにならんや、この一物は、役立たず。
  真冬の凛冽さにも増して冷え込んじまったのか。
  腹袋のなかに縮み込んで退散かいな。
  千重にも皺みやがって,身を隠すなんざ。
  扱いてやるぞと引っ張り出そうとするも。
  頭だけ覘いてるざまだ。
  怖じ気づいて落ちこぼれかな。
  しっかりしろ、と声をかければ一層落ち込みやがって。
                               (『サチュリコン』132節)

  
 またサディスムとマゾシスムとの関係(前回のセッションの説明では、小生は、Jean Allouchの指摘を踏まえて述べましたが、ここでは、… ismeについての批判的含意は、全面的には当てはまりません。sadique, sadien, sadisteの違いは、クリティーク誌に発表した当時〈まさにこのセミネールが行なわれている時期に一致します〉は、Écrits執筆のように、三者の違いが明確でないことをAllouchは述べているのですから)が語られます。マゾシスムについて、ある人が書いたものが、ラカン自身の目指すものに近づいていると評価をしながらも、肝心なところを見逃していると批判しますが、Ludwig Eidelbergは、決定論の誤謬として、苦痛というものに重きを置く点を顧みて、本質はそこになく、そこから離れようとは試みています。<他者>が目指されているのも事実です。転移において、マゾシストが<他者>と関係するというところまでは及第です。件の論文はかれのThe concept of narcissitic mortification, International journal of Psycho-Analysis, 1959, vol. 40, no. 3-4, p. 163-8およびHumiliation in masochism, journal of Psychoanalytic Association, 1959, vol. 7, no. 2, p. 274-283. とV. A. の注には記されています。他の分析家も<他者>との関係については意識して、これを利用していますが、そこまでで、表面的なinsightだけで終わってしまっています。Eidelbergは、自己愛の機能を強調していて評価できますが、それだけでは不十分です。
 マゾシスト4)が<他者>の享楽jouissance de l'Autreに向かうとするのは確かですが、かれ/かの女はそれを望んでいる訳ではありません。ラカンは、その裏を読んでいるのです。マゾシストが究極的に目指しているもの、それは<他者>への不安angoisse de l'Autreなのです。

 サディスムにおいて、<他者>との関係において、はっきり見て取れるのは、マゾシストの場合と同じように言えば、<他者>への不安angoisse de l'Autreです。
 マゾシスムにおいても、マスクされているのが、(もし、サディスムがマゾシスムの逆の道を辿れば行き当たるとするならば)その逆のまた逆の道を辿れば行き着くことになりますが、そうではなく、つまり<他者>の享楽とはならないのと同様 … サディスムもマゾシスムの逆ではありません。両者の関係は一見して解るような簡単なものではありません。図48は、図31-33を四分の一回転させたものですが、両者は左右対称でも逆でもないでしょう。ここでは見えてこないでしょうが、ラカンが言いたいことは、前回のセッションでも述べたように、サディスムは、<他者>への不安を目指しながら、そこに隠されているのは、対象aを求めていることです。これをラカンはサドの幻想fantasmes sadiensと呼びます。
 サディスムとマゾシスムにおいて、目指されながら、隠された、第二番目の(フロイトにとって第二番目の幻想が基本的幻想であり、これは〈分析によっても〉明らかにされない幻想であることを繰り返し強調します=小生)レヴェルにあるもの、それは<他者>においての、前者においては不安であり、後者では対象ですと4)

4) とV. A. にありますが、つまり、自明のこととして多くの分析家が定式としているのは、sadisme, masochismeの幻想の第三番目のものであり、ラカンにとってさえ見えにくいものではあるが、第二番目のものが究極的な幻想である、とラカン自身認めているのです。それゆえ、サド的欲望の対象がノワールな(つまり、見えにくい)フェティッシュであると言う帰結もここから導き出されます((8) 1963 1 16 水曜日のセッション参照のこと。また同じ言葉がKant avec Sadeにも認められることに注目しましょう)。因にV. M. ではこの部分は省かれています。またAFI版では別な校となっています。

Nous nous trouvons donc, entre sadisme et masochisme, en présence de ce qui, au niveau second, au niveau voilé, au niveau caché de la visée de chacune l'occultation réciproque : de l'angoisse dans le premier cas, de l'objet (a) dans l'Autre (V. A.)

Nous nous trouvons donc, entre sadisme et masochisme, en présence de ce qui, au niveau second, au niveau voilé, au niveau caché de la visée de chacune de ces deux tendances, se présente comme l'alternance, en réalité l'occultation réciproque de l'angoisse dans le premier cas, de l'objet a dans l'autre (AFI)

 対象aの眼につきやすい特徴ともいうべきものついては、旧来から論議されてきましたが、その重要性については、認識されないままにあります。フロイトが何カ所かで同様に言っている「アナトミー、それは運命、アナンケーである」という定式が対象に対する誤った認識として定着してしまったからです。男女の解剖学的性差と性愛の差とについてフロイトとのは、これから何度か触れますので、後のセッションのところでまとめて説明したいと思います。

 このセッションで、注目すべきアフォリスムが出てきます。愛だけが享楽が欲望に恵みを与えてくれることを許したまうSeul amour permet à la jouissance de condescendre au désirです。このアフォリスムは、例えば、セミネールXX巻『アンコール』の次のパッセージにも繋がる、ラカンによる愛の定義でもあります。

 偶然性を、わたしは、書かれないことを止めるcesse de ne pas s'écrireで示しました。というのも、そこにはまさに出会いがあるからです。症状、情動を伴ったものにおいて、それぞれにおいて、その脱出、主体としてではなく話す者としての脱出、性的関係からの脱出を刻印するものすべてとの出会いがあるからです。こうは言えないでしょうか。つまり、情動を通じてのみ、この深淵から、なにものかの出会いが起こるのです。それは知の次元において、絶え間なく変化することが許され、しかしある瞬間、幻想illusionをもたらすのです。性的関係が書かれないことを止めるといった幻想です。単になにかが語られるだけでなく、記される、各自の命運において記されるという幻想です。この幻想を通して、暫しの間、これは宙づりになった時間ですが、 性的関係がもしあったならばのはなしですが、この性的関係が、語る人間において、自分の痕跡と幻への道を見出すのです。書かれないことを止めるcesse de ne pas s'écrireから書かれることを止めないne cesse pas de s'écrireへの否定のneの移動、偶然から必然への移動、そこに宙づりになった時間がやってくるのです。そしてすべての愛はそこに繋ぎ止められるのです。(Séminaire XX, Seuil, p.132)

AngoisseとEncoreとの間にはかなりの距離がありますので、ここではJ.-A. Millerの簡潔明瞭な説明を付記します。

 なぜラカンは、このセミネール(この『不安』のセミネールのことです)において、執拗なまでに、小文字のaを主体の側に、<他者>ではない側に位置させたのであろうか。小文字のaは、いわば、自分に固有な身体の享楽の表現、変形であり、自閉的、閉じたといった言葉で示される享楽だからである−ラカンは、aを、フロイトのものdas Dingとも呼べる次元まで閉じたものにしてしまったのである−一方で、欲望は<他者>と関係する。それゆえ、享楽と欲望とはそれぞれ自律したものであり、両者の間には溝がある。享楽は、簡単に言ってしまえば、場所として、自分に固有の身体であるが、欲望は<他者>との関係を結んでいる。このような腑分けはまた、10年後、セミネール『アンコール』で大きな展開を見ることとなる。(J.-A. Miller, Introduction à la lecture du Séminaire L'angoise de Jacques Lacan, La Cause freudienne no. 59, p.76) 

 別のアフォリスムが続きます。愛は欲望の昇華であるl'amour est la sublimation du désir、ついで、わたしが愛する者であることを表明することは、 (a)の欠如になる決意ができていることであり、そこから、わたしは、わたしの身が享楽へ晒されるのを覚悟して、心の扉を開くme proposer comme désirant, érôn, c'est me proposer comme manque de (a), c'est par cette voie que j'ouvre la porte à la jouissance de mon êtreさらに、女性に出会うこの企ての道において、(a)からの要請で、<他者>への不安が引き起こされることは必至である。わたしは<他者>を(a)としてしまうしかないからであるToute exigence de (a) sur l voie de cette entreprise de rencontrer la femme, ne peut que déclencher l'angoisse de l'Autre, justement en ceci que je ne le fais plus que (a)

Didier Moulinierによると、次のようになる。すなわち、「性的関係の袋小路は、男性と女性のふたつの極の配役のぶつかり合いに基づく。男性側は、たいてい、倒錯的であり、<他者>を小文字のaに作り替えてしまうし、女性側は、『他の享楽』autre jouissanceが現に存在することを主張する。しかし、この『他の享楽』については言葉では言い表すことができないのである」(http://www.etudes-lacaniennes.net/Etudes/Psychanalyse/jouissance/joui-amour.htm extraite le 27 jan 2008 23:41:09 GMT.)。この『不安』のセミネールにおいては、まだ、「性的関係は存在しない」といった、セミネール『アンコール』においての中心的テーゼは提出されていませんが、ここの件において、ラカンはすでに、この問題を先取りしていたと看做すことはできるでしょう。

 昇華については、Séminaire VIIの再検討が必要でしょうし、Séminaire XVI, 5/3/1969-4/6/1969にかけてのセッションが重要であり、宮廷風愛amour courtoisとの関連も絡んでくると、大論文になりますので(次のセッションで扱う、ドン・ジュアンの問題も書いていたらきりがありません)、今回はここら辺で締めさせていただきます。(2008/02/04)